国内の芸術作品のインプットとタイミング

 
怪物
モアザンワーズ
君たちはどう生きるか
自分の中に毒を持て
 
などを通して、インプットをした。
そしてたくさんの人にあった。
 
会っているからかもしれないが、人生は人との巡り合わせだし、その中で自分がどれだけ素直でいれるのか、そのままの自分がさらけ出せるか、そして、何に嫌だと思ったり、好きだと思ったり、それを貫けるかどうかなのだと思った。
 
「自分」「渇望」「さみしさ」「コンプレックス」
そんなワードが浮かぶ。
 
他人に投げかけては返ってくるものから、自分を探す。
輪郭をなぞる、ぼやけたままの輪郭を追う。その中に自分をみつける。
 
生きる中で、生き方にどれだけ責任をもてるかで、その輪郭はよりはっきりと、鮮明に、燃えるように浮き出てくるのだと思う。
僕は気がつくのに遅かったのかな、なんて感じる。
でも、これはもう仕方がない。
30歳にして、人との付き合いや自分の欲望、自分のことをまっすぐに出してみることの大事さに気がつけた。
それは、異国の地で、たった一人旅をしてきたからなのだろうか。なんとなく、そう思いたい。
 
そして、7月15日現在までに個人的に良い作品と出会えているように思う。
感じ方は、以前と変わったようにも思う。
 
今現代において、他者との比較や、自分の姿、SNSの発達による他人があまりに近しいというのはある意味、問題をはらんでいる。
いつでも比較ができることで、過剰な線引きによって自分を卑屈に思ってしまったりする。逆もまたしかり。
 
その中で、「芸術」的な生き方というのは自分の領域、自分のやりたいことを守るために大事な感覚なのだと思う。
これは、自分がこう思ったからだ、こう生きたんだ、というのは自分のおおいなる意志決定と決断であり、基本的には尊重されるべきものだ。
もちろん倫理観によっては間違ったものもある。
が、しかし、ルールに則った上で、「僕は、こう思う。だから、こうした」というのは理解しようという前提にあらねばならないと思う。
 
少し脱線したが、みんなさみしさを抱えているし、何かに渇望し、それを表現している。
何か、見えない幻影のようなものを追い続けて、それを表現したりしている。
建築、文章、写真、映像。
僕も何か残したい、そんな渇望が自分の中にあるのを感じる。